義経夢の会会員各位
平成29年11月吉日
義経夢の会結成10周年記念「定時総会」のお知らせ
謹啓
向寒の候、めっきり冷え込んで参りましたこの頃、会員各位には益々ご活躍のこととお喜び申し上げます。
日頃より義経夢の会にご支援、お力添えを賜り、衷心より感謝申し上げます。
さて、ご承知の通り、今日まで会長の病気と身体的な障害があった為、定時総会の開催をしばらく見送って参りましたが、会長の体力も回復し、また、組織の体制も固まりつつあることから、しばらくぶりに定時総会を実施し、もって新たなスタートを切りたいと考えております。
総会は4年ぶりの開催となります。この間、会員は100名以上増加し、今年3月には奥州支部も結成されました。また、本別町、函館市、八戸市、宮古市、今治市、京都市、宮崎市でも結成準備会が立ち上がっており、来年はさらに加速的な増加が予想されています。
また、会長著『義経北紀行伝説』(批評社刊)の出版により、義経北行ブームが再燃しており、緊急に組織陣容を整える必要性がでて参りました。
つきましては、全会員の顔合わせ会と銘打ち、来春、設立10周年を記念して、下記要領にて定時総会を開催し、同時に講演会と新年交賀会も催したく準備を進めております。
ご多忙中とは存じますが、何卒、万障お繰り合わせの上、ご参集下さいますようご案内申し上げます。敬白。
記
日時;平成30年2月18日(日)午前10時より
会場;花巻南温泉峡 湯の杜 ホテル志戸平
日程
09:00 受付開始
10:00 講演
12:00 講師を囲んでの昼食会
13:30 定時総会
15:30 チェックイン、フリータイム
18:00 新年交賀会
21:00 二次会
翌朝朝食(バイキング)後、解散。
※会費は、ご宿泊の場合、14000円(宴会は飲み放題設定)二次会参加は2000円別途加算です。
講演会・昼食会・総会のみ参加の方は3千円。講演会から新年交賀会まで全て参加し、日帰り希望の方は12000円となります。
※講演の講師
相原康二先生(えさし郷土史館館長、前県立博物館館長)
演題
演題『義経生存伝説の背景を考える』
※総会の議題
事業報告、決算報告、事業計画、予算審議、役員人事承認、諸連絡。
尚、定時総会は本会結成10周年の佳節を迎える記念の総会となります。記念式典を兼ねた総会とし、当会会員である、ホテル志戸平代表取締役社長の久保田浩基氏より、歓迎ご挨拶を賜ります他、国会議員の諸先生方にも祝辞を賜ります。
※総会出欠のご返事は、資料作成準備の都合上、1月20日までにご連絡下さい。
その他
※ご家族、ご友人、趣味のお仲間、歴史愛好家の方のご参加を歓迎いたします。是非お誘い合わせの上、ご参加戴けたら幸いです。
※定時総会ではコーヒーを提供いたしますが、コーヒーが苦手な方はご連絡下さい。
※コーヒー代、昼食弁当代は会費に含まれております。
※お部屋割りは4人一組の割り振りとなりますが、個室をご希望の方は事前にお知らせ下さい。
※講演会場と総会の会場は同じ会場を使用します。
※受付はホテル玄関前で致します。また、講師のご著書と会長著書『義経北紀行伝説』並びに、関連グッズの販売も致します。本をまだ購入されていない方は当日お買い求めできます。
※二次会は自由参加です。参加ご希望の方は税込み1900円+税(飲み放題、歌い放題設定)の加算となります。
※受付けで年会費の徴収を致します。3000円のご用意もお願い致します。尚、昨年以前の未払いの年会費については、カンパという形で受付けさせて頂きます。
※新入会員の方は、受付けで会員証をお受け取り下さい。
※花巻駅前から、ホテル志戸平までバスが随時出ております。電車でお越しの方は8:05発と8:50発のバスにご乗車下さい。(料金200円)
また、新年交賀会のみ参加の方は、15:25、16:25、17:25のバスをご利用下さい。
※上記以外のお問い合わせは、下記の事務局までご連絡下さい。
川村哲也(ホテル志戸平)
勤;0198‐25‐2111
FAX;0198‐25‐2098
携;090‐9639‐4758
【2017年2月18日(土) 『義経北紀行伝説』第一巻の出版記念パーティー (サンセール盛岡)】
祝賀会は会費制(1万円)で、出席者は94名でした。
乾杯は義経北行伝説研究の大家、金野静一先生の発声で開宴となりました。
会場にヴァイオリン奏者伊禮しおりさん(義経夢の会会員)とピアニスト北島貞紀さん(同会員)尺八演奏玉山泉さん(同会員、岩手県尺八協会会長)が演奏で花を添え、歌手の二宮万規子さんが『鎌倉慕情』で静御前の憐憫の情を歌い上げ、会場は大盛り上がりとなりました。
終盤は花束贈呈(写メール参照)その後謝辞を述べ、最後に赤沼利彦相談役の三本締めで幕となりました。約3時間の長いパーティーでしたが、感覚はあっという間に終わった感覚でした。
批評社より山崎純醒著作本がいよいよ発売されました!
●義経北紀行伝説 第一巻[平泉篇]
正史の虚構を覆す 義経北紀行伝説!
【内容】
正史の虚構を覆す 義経北紀行伝説!
ヤマト朝廷によって編纂された正史(『吾妻鏡』)に基づく義経自害説を、大胆な発想と緻密な検証をもとに覆し、隠蔽された事実の背後に潜む真実の実像をえぐり出す。
藤原秀衡死後、平泉を脱出し、延命した義経一行の実像を求めて、豊かな構想力と地道な実証研究によってその隠された軌跡を跡付ける。
「社会構造といった面から見れば、歴史はいわゆる勝者の歴史であり、それが真実の歴史でなくとも残るが、敗者の歴史は、それが真実を伝えるものであっても次第に歴史から消されていくという側面も無視できない。
まして、伝承といった類であれば、社会的な必要性が生じると、権力者によって虚実織り混ぜて記され、増幅させるのは容易である。
時代状況や政治情勢によって異なる解釈を成立させ、その時代の支配者の都合で変化、変更されていくのである。不思議なことに、伝承というものは、実だけでは伝わりにくい話でも、虚実織り交ぜることによって、語り伝えるエネルギーが生まれてくるのである。
●源義経 周辺系図解説◆『義経北紀行伝説』を読み解く
源義経周辺系図は著者自ら作成したオリジナル系図である。
<月例・義経北紀行伝説の史跡地探訪の旅 第2弾>
日時:8月17日(水)
企画・プロデュース
義経夢の会ツアー企画委員会
スケジュール
7:16 ・・盛岡駅発
7:19 ・・仙北町駅
7:33 ・・古館駅
8:46 ・・平泉駅着
9:00 ・・現地打ち合わせ・レンタカー手続き
9:15 ・・出発
※史跡地の探訪は11ヶ所を予定。大型バスで移動した場合、立ち寄れる場所は、この内の4ヶ所しかありません。
9:30 ・・和我叡登挙(わかえとの)神社参詣
※県内最古級の延喜式内社。安倍氏の守護神であり、藤原四代の氏神である荒覇吐神を祀る。山頂にある奇石が御神体。旧衣川村山口、長者ヶ原廃寺跡近く。
藤原四代が護持し、その縁者や義経らが頻繁に詣でたものと想像される。
10:00 ・・磐神社(陽神)参詣
10:15 ・・女石(陰神)神社参詣
※ともに延喜式内社。旧衣川村石神にある陰陽一体神。二社とも荒覇吐神社だが、磐神社を「男石大明神」と称し、胆沢七社の一つ。女石神社は松山寺境内にあり、磐神社に対する陰神として崇敬されている。全国的にも珍しい陰陽一体の男女神。
※義経主従一行が北紀行旅に出発する際、全員で参拝したと伝えられる。参拝したのは決行日の前日(文冶4年4月27日)と想像される。
11:00 ・・判官山(九郎山)通過
※義経北紀行旅のコースは、源休館→銚子山(356m)→兄和田→人首峠→米里地区→五輪峠(1558m)→峰づたいに歩き、物見山(870m)→姥石峠→五葉川添いに南下→鉢森山(733m)鷹ノ巣山→蛇山(751m)→内野峠(658m)→山の峰道を歩いて麓へ下り→生出山(771m)→判官林→住田町の大股橋を渡り(当時は橋は無かっただろう)→折壁地区→判官山に至るコースを歩いてきたと思われる。
※折壁地区にたどり着いたところで日が暮れてしまったので、判官山(当時の山名は何と呼ばれたのかは不明)で野宿したのだと云う。
この言い伝えは、この地の古老・菊池千里氏が所蔵する古文書に記さている。古文書は万延二(1861)年の日付。その古文書によれば、北の方(良子御前)が産気づいた為に数泊留まったと云う。
※判官山は、現在、原生林が鬱蒼と林立していて、立ち入る隙間もないが、当時は低い草木だけが生い茂っていたと云う。場所は住田町大股にあり、国道397号線の右手にある。標高730m。
11:20 ・・橘内屋敷跡見学
※住田町下有住(しもありす)奥新切(おくにきり)にある。慶取山の中腹にあり、この一帯は「ヨシウチ金山跡」とされ、橘内(橘次の弟)が管理する金掘り場であったと云う。現在、屋敷跡とされる場所に「地主大明神」が鎮座している(らしい)
※慶取山を北西さらに5.5km登った頂きを「貞任山(884m)」という。そこから400m南東に「三三九度岩」があり、さらに南東3km先に「男火山」「女火山」がある。この名称から想像するに、この地が安倍貞任のゆかり深い土地であったことが窺え、山の名から、安倍氏の守護神である、男女一体神の荒覇吐神を想起させられる。
※義経主従一行は、橘内屋敷で海の幸と山の幸で厚い歓待を受け、数泊して旅の疲れを癒やしたと云う。
※有住中学校そばの五葉川脇に、昔「判官手掛けの松」という老樹があったという。現在その場所にある松は三代目の松だと云う。
※この地は急勾配の難所で、義経主従一行は、木や草につかまりながら崖を登ったと伝えられる。
※「葉山橋」のたもとには「弁慶の足跡」と称する岩の窪みが残っている。
11:40 荒覇吐神社参詣
※住田町世田米台地沢にある。義経主従一行は、海尊配下の山伏の案内で、この神社に参拝。旅の無事と武運長久、無病息災、蝦夷地安全渡海を祈願したと伝えられる。
※近くに「野尻金山跡」がある。神社は住田高校から1.5キロ東にある。
12:20 ・・玉の湯にて休憩・昼食。・入浴可。
※陸前高田市玉山高原中腹にあり、地元では「玉鉱泉」と呼ぶ。義経主従一行は、この山の中腹にある金売橘次の屋敷を目指してやってきたのであるが、一行もこの温泉で、旅の垢を落としたのだろうか。
14:00 ・・玉山金山跡見学
※玉の湯の裏手の山の中腹にある。
この辺一帯の川や地名は黄金山、金成、金成橋、金成口、砂子沢、金壺、金ノ倉、小府金、長者洞など、金にまつわる地名が多い。川から砂金が大量に採取された名残りの地名であろう。
※玉山金山の黄金は、1200年間延々と採掘が続けられ、当時、世界最大規模の産出量であったという。
※鉱物学者の報告によれば、中尊寺金色堂の金の含有成分と玉山鉱山の金の含有成分はほぼ一致するという。つまり、金色堂の金箔は玉山金山の金を使用したものだったことが明らかになっている。
※玉山金山は、昭和32年に閉山。今も残る「千人抗跡」は、その閉山した記念碑である。
※「千人抗」とは、千人の抗夫が集会を開けるほど広い洞屋があった、という説と、落盤事故で千人の抗夫が一度に亡くなったという由縁から名付けられたという二つの説がある。
14:40 ・・金売橘次屋敷跡見学
※玉山金山中腹にあり「金売吉次屋敷跡」の表示板が掲げられている。
※義経主従一行は、この屋敷で厚いもてなしを受け、十数日滞在したと云う。北の方の産後の休養が滞在の理由であったらしい。
※北の方の赤子は、赤羽峠で日の出の時に出産したので「日出姫」と名付けられた。が、ひだちが悪かった為、産後数日で亡くなったという。(流産したという話もある)
遺骸は地元の民たちによって手厚く葬られ、その霊は遠野市秋丸地区の神社に祀った。日出姫の名をとり、日出神社と称し、義経関連神社の中でも最も大きな神社として現在鎮座している。
※橘次屋敷は、周囲を高い柵で覆われ、東西南北4ヶ所に櫓(やぐら)を建てて、厳重に警備されていたと云う。近づく者があれば、たちどころに弓矢で射殺されたと云う。
※北の方の体力が回復するまで、あと数日を要すると思われる頃、海尊配下の斥候者から報告があり「畠山重忠を将とする追っ手の軍船がこちらに向かっている」との報告が入り、やむなく屋敷を出ることとなった。橘次は、玉山金山で取れた砂金を、笈にひと抱え入れて、餞別としたと云う。
このくだりは、後世の創作ではないだろうか。時間軸に照らして考えれば、矛盾が生じるからだ。その理由は現地で解説します。
15:20 ・・広田湾
旅の最後は玉の湯の山を下り、南下して広田湾に向かいます。
※義経一行と共に連れ添って歩いてきた女性たちは、義経の本隊一行と別れ、この湾から屋形船に乗り、宮古湾を経由し、青森・種差(たねさし)海岸に向かったと言い伝えられている。
※船に乗船したメンバーは、北の方、秀衡側室(アサメ御前)、北の方のお守り役・増尾十郎兼房、忠衡妻(紘御前)、金売橘次配下の先達(船頭)、他に橘次配下の下僕数名だったと考えられる。
※屋形船は海尊の指示で、橘内があらかじめ用意しておいたもので、屋形船でもかなり大型のものであったと云う。馬も数頭載せたと云う。
※余談であるが、船の中での女性の厠(かわや・はばかり)は「庖烙(ほうろく)という浅い土鍋のような容器で用をたしていた。使い捨ての陶器で、用をたしたら海にポイだった。
※紘御前は、本別アイヌ・コタンの女酋長になったという伝承がある。
15:25 ・・月山神社参詣
※広田湾内にある。義経主従一行は、出航前にこの神社に立ち寄り、旅の安全を祈願したと伝えられる。
※月山神社の祭神は月読命(つくよみのみこと。天照大神の弟神)平泉にある泰衡の妻が勧請した月山神社と関係があるのかどうかは不明。
※岩手県内に限って言えば、金山がある所には、必ず橘次屋敷があり、月山神社もセットされている。これはただの偶然ではないだろう。この由縁について知っている方がおられたら、是非当会に知らせてほしいと思う。
※月山神社から700m南に、藤原四代ゆかりの白山神社がある。立ち寄ってみるのも良いだろう。
17:10 ・・平泉駅着※現地解散となります。
【2016年6月20日 義経ゆかりの地探訪】
平泉周辺の義経ゆかりの地を10人で探訪してきました。
①最初に訪れた史跡は「月山神社本殿」
月読尊(つくよみのみこと、天照大神の弟神)を祀り、五穀豊穣と家内安全の神、別名鳥海山神)
地元の伝承では、泰衡の妻が夫の惨死を弔って勧請した神社と伝わっています。
―が、泰衡の妻の年齢は20~25歳であったと想像され、それでは若過ぎて神社を建立する財力はないと考えます。この伝承は非常に疑わしいと感じています。
そもそも(持論ですが)泰衡が秋田・贄(にえ)の柵で、河田次郎に討たれて死んだというのはつくり話です。泰衡の妻もその事実を知っていたものと考えられ、夫を弔う神社を勧請するはずはないのです。
ここは秀衡の妻(恵子めぐむこ御前)が子孫繁栄と領内の五穀豊穣を祈って勧請したか、さもなくばもっと古い古代に建立された神社と考えるのが妥当でしょう。
②月山神社奥の院
月山神社は経塚山の頂上付近にあり、かっては奥の院の他に中の院などいくつも神社が建立されていたと想像されますが、今は奥の院が一つ存在するのみです。この奥の院は、昭和14年に再建されたものです。
③長者ケ原廃寺跡
室町時代からずっと金売橘次の屋敷跡と云い伝えられてきたこの史跡は、昭和32年の学術調査により、それより100年以上古い阿倍氏が建立した寺であったことが判明しました。現地には復元図も公表されていて、庁舎の機能を有する巨大な寺であったと想像されます。
④毛越寺
あやめ祭の初日でした。あやめ三百種、三万株のあやめが我々の心をなごませてくれました。
京都・東福寺所蔵の「義経武者姿座木像」と「藤原三代の肖像画」三点のご開帳も鑑賞してきました。
⑤雲際寺(義経の位牌が納められていた寺。本堂を渡辺副住職が案内してくれました。
隣接している「義経堂」は、本堂が全焼した後に再建されたもので、中に不動明王、脇侍にコンガラ童子(左)、制托童子(右)が安置され、やはり燃えてなくなった義経の位牌の復元したものが祀られています。
⑥佐藤基治詰め屋敷跡
奥州18万騎を束ねる稀代の軍師、佐藤邸跡地を見学しました。かって3千坪あったと云われる屋敷ですが、今は住宅密集地となり、その面影すら想像できない場所となっています。
狭い道で、バスツアーでは立ち寄りを断念しましたが、ようやく探訪することができました。
「詰め屋敷」とは「役邸」のことで、今でいう分庁舎的な屋敷であったと想像されます。
義経主従一行は、深夜、高館を脱出して最初に佐藤邸に投宿しました。翌朝軍議を開き、昼に次の投宿先を目指して出発したものと想像されます。
この軍議には、義経主従一行の他、義経の妻三人、泰衡、泰衡の妻、忠衡、忠衡の妻、忠衡の子三人、秀衡の側室アサメ、金売橘次が加わっていたと想像されます。
佐藤邸は、地図で見ると良く分かるのですが、四神相応の原理に基づいた配置になっていて、精緻に計画されて建築された屋敷であることが分かっています。
⑦経塚山山頂
弁慶が財宝を埋めたという伝説が残る山。その名の通り、経塚があって、経典が書かれた巻物やカワラケなどが出土しています。
頂上に通ずる遊歩道があり、その道を歩いて頂上を目指しましたが、雨上がりだった為、立ち入りが困難と判断し、途中で引き返しました。次回のお楽しみとしました。
⑧月山神社
長者ケ原廃寺跡の近くにある神社で、山の入口そばに建っています。西暦850年に建立された神社。阿倍氏も敬崇し、阿倍氏が滅んだ後、清衡が中尊寺奥の院として再興し、大いに栄えたと伝わっています。が、今は荒廃し、見る影もありません。
⑨和我叡挙神社(わかえとのじんじゃ)
月山神社の近くにある延喜式内社で、県内では最も古い神社の一つです。荒覇吐神を祀った神社で、山頂の奇石をご神体としています。ここはうっかりスルーしてしまいました。次回のお楽しみです。
来月も計画したいと思っています。
次回は旧住田町にある、義経一行が参拝したという「荒覇吐神社」、陸前高田市にある「金売り橘次屋敷跡」、「玉山金山跡」、広田湾そばの「月山神社」を探訪します。
今度の予告は少し早めに発表します(笑)
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