【義経北行伝説の概要】
義経が平泉を脱出したのは、頼朝軍が奥州に攻め入ってきた文治5年4月(いわゆる奥州合戦)ではありません。
その一年前の文治4年4月29日に脱出したと想像されます。(この日が秀衡公の月命日です)
この日は秀衡公が亡くなった月命日の日に当たっています。この日、脱出したことが、中尊寺の北西2.5キロにある雲際寺の記録にも残されています。
脱出した時間は夜の9時か(この時代、何か行動を起こす時、その時刻は非常に重要で、誤った時刻に出発すれば、災難がふりかかると信じられていました。なので、時刻の決定は慎重な上にも慎重を期した訳です。)。
メンバーは義経と従者13人、それに北の方と北の方の従者であった増尾十郎、それに、秀衡の側室のアサメ、アサメの従者、金売橘次の配下の者、藤原忠衡の妻子が加わっていました。
北の方である良子(ながこ)御前は、村上天皇を祖とする土御門流の名門の出で父通親(みちちか)は内大臣兼、陰陽寮頭(長官)でした。当然のことながら、良子御前は、幼い時から陰陽師としての秘儀を父から伝授されていた訳です。出発時刻も良子御前が占事によって決定したものと想像され、最良の時刻である戌の刻(夜9時前後)を選んだだろうと想像します。
義経が30歳の時、義経には妻妾が6人いましたが、良子御前が陰陽師だったが故に、旅の同道をただ一人許された訳です。
ただ、北行旅の最大の悲劇は、良子御前が旅の道中、今の岩手県遠野市赤羽峠で、義経の子・日出姫を出産し、肥立ちが悪かった為にまもなく亡くなってしまったのです。地元の伝承では、村人が遺体を引き取り、遠野市秋丸地区に埋葬し手厚く葬ったといいます。その御霊は、現在も秋丸地区にある日出神社に祀られています。
良子御前は、出産後の衰弱と、娘の病死のショックでしばらく寝込んだといいます。北の方と義経主従一行が休養をとった場所が、今の陸前高田市竹駒町堂ノ沢にあった橘次屋敷で、現在も「吉次屋敷跡」の観光案内板が掲げられています。
さて、話を戻します。出発時刻になると、旅支度を整えた義経の従者たちは、密かに義経の居館に集合し、「出陣の儀式」を執り行ったはずです。祭事を執り行ったのは、ニギハヤヒの命を祖とする熊野の神官の流れをくむ修験者で、神職であった亀井六郎だろうと想像します。(亀井六郎には、同じく神職の兄・鈴木三郎と弟・亀井七郎が北行旅に同道していますが、出発に当たっての神事は六郎であったと考えます)
うちアワビ、かち栗、昆布の三種を祭壇に供え、邪気祓いを行い、旅の安全と無病息災を祈願したのでしょう。
ところで、秀衡の側室アサメは、何故北行旅に同道したのか。これには二つの理由があります。
一つには、アサメは、秀衡の妻たちの中で一番若く、義経と同じ歳だったという話もあります。蝦夷地本別コタンの大酋長の娘で、現地での通訳の為に、秀衡が義経に同道するよう命じたのです。
二つ目としては、秀衡は、やがて攻め入ってくる頼朝軍に、(義経がいなければ)奥州軍は勝てないと判断し、この機会に子を設けなかったアサメを(平泉に未練もなかろうと考え)本別の両親に返そうと考えた訳です。
秀衡の他の妻や義経の妻たちも、奥州合戦のある数ヶ月前に実家に返しています。
泰衡、国衡ら兄弟と義経主従は、秀衡公卒去後、直ちに、北行旅の為のプランと準備を行い、合議を何度も重ね、綿密な計画を立てて、鎌倉方の探索の目を欺きつつ、平泉脱出を決行したのです。
十三湊へ飛脚を発して、出発日を知らせたり、村々を駆け巡って米の調達をしたり、変装道具の調達をしたり…、これらは、地元に残る弁慶直筆の古文書(一般には『粟稗借用文書』と呼ばれる証文)が、その内幕を如実語っています。
首途(門出)に際して、泰衡は、義経主従一行に、騎馬五十騎、駿馬五十頭、黄金を笈(おい)六棹(さお)を贈ったが、騎馬と駿馬は旅の邪魔になると言って返上したといいます。
一行は、今の岩手県陸前高田市まで一緒に旅しますが、ここで女・子供は、金売橘次の配下の先達で別行動を取り、広田湾から屋形船に乗船して宮古市の宮古湾まで行き、横山八幡宮に宿泊して義経一行の到着を待ったと伝えられています。女・子供に、危険な崖・峡谷・峠・峰・尾根は歩かせる訳にはいかなかったからです。尚、女・子供たちの装束は山伏姿ではなく、旅芸人・旅商人の出で立ちだったと想像されます。
ところで、義経の脱出を一番に助けたのは藤原泰衡です。間諜(頼朝方のスパイ)に感づかれないようにする為、かねてから義経らと計画して案を実行に移したのです。
泰衡は、秀衡公の供養と称して、御堂を建立し、その落慶法要の大祭を催すとして、領民くまなく平泉に集め、夜通し篝火を焚き、剣舞や神楽を舞わせ、衆目を舞台に集中させたのです。当然、義経の身代わりは舞台奥にたたずませ、間諜の目を欺きます。
そうして脱出をカムフラージュさせ、義経一行は、山伏姿で夜陰にまぎれて高舘山を降りた訳です。
その日から、義経の身代わりになった人物は、奥州合戦があるまでの1年間を義経に成りきって間諜を欺いた訳です。
身代わりになった人物は杉目太郎行信(すぎのめゆきのぶ)その人。現在の宮城県庁敷地内にあった杉目城の城主で、顔かたちも義経そっくりだったといいます。奇しくも、義経と年齢も同じ、家族構成も全く同じだったという。(4歳の娘と1歳半の息子がいて、年齢構成まで義経の家族と同じだったという)
身代わりになった事実は、泰衡とその側近、義経一行にしか知らせなかったが、平泉の武士たちは、誰も気づかなかったというのですから、よほどそっくりだったのでしょう。
杉目行信は平泉の軍監であった佐藤基冶の息子になっていますが、二重の縦線は養子を意味するもので、行信の実父は、基冶の弟の正信なのです。行信の弟である弘信と信政を系図に示しましたが、姓は杉目となっているのが論より証拠です。母は上野国豪族大窪太郎の娘とされる女です。
一方、義経は、基冶の娘・浪の戸(のちに煕ひかる御前)と結婚しており、行信が基冶の養子に入ったことで、義理の兄弟関係になる訳です。行信が自ら、義経の身代わりになると願い出た可能性が高いと私は見ています。
ところで、正信は、若くして財を成し、本家の基冶より勢力が大きかったといいます。妻も数人いたようです。が、若くして亡くなり、子を養えなくなった妻たちが、基冶に養子縁組させたと地元の史記にあります。有名な、あの継信・忠信兄弟も、一般には基冶の子とされていますが、実は父は正信なのです。
義経は、平泉脱出の前夜、自分の居館に行信を招き、「あとを頼む!」と言って一献を交わしたと地元の伝承に伝えられています。酒が全く飲めなかった義経ですが、この日ばかりは日が明けるまで酌み交わしたといいますから、最初で最後、今生最後の酒を義兄弟で酌み交わした訳ですね。
【義経北紀行伝説 行程①】
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